Yoshizen's Blog

禅の源流 / How Zen was started

勤行や禅における日常の勤め,実践について具体的に説明した言葉は古代の経典の中には登場

して来ません。  単に善き仏教者である為の身だしなみ,心構えが書かれているだけでそれが実際上,

本人の心理生理に いかなる変化をもたらしているのか,そのメカニズムに対する考察が行わ

れた事は仏教2500年の 歴史の中で,かつてー度たりとも無かったと言えるでしょう。

唯ーの例外でそれに近い考察はアーラヤ識という概念(潜在意識に近い)の登場でしたが実際に

それが構造的に,いかに仏教と関っているかが考察された訳ではなく単に存在論,認識論=存る

のか無いのか=単に存ると思うだけなのか=>「アーラヤが捕えたものこそが真実」という考え

であったにすぎず,仏教における 空,無,無心,在=不在,不立文字,以心伝心 といった

概念の全てが実は[不可視の潜在意識]故に出て来ていたという事には

思い至らなかった訳です。 そもそも2500年前には[潜在意識]という概念は無く,

その透徹した眼で己れの深奥に在るそれを見すえながらも,それを説明するのにはさすがの

釈尊も手甲ずったようで,色々な喩えにたよらざるを得なかった。

例えばダルマ/法とともに在る喜びを「ー切矛盾の無い理想境,極楽に暮すようなもの」と

描写すればそれが潜在意識中の満足感,ドーパミンホルモンの横溢による気分のことと理解

できなかった者,後世の読者は字づらから「釈尊は極楽が存在すると言われた」と誤解する。

眼前に無くても,潜在意識はその存在を知っている場合。逆にそこに在りながらも,その

確証が無い。理屈で解っても,どうしても受入れられないとか。そうした意識はどこに在るのか?

大乗仏典独特の「在るのではなくして在る」といった苦しまぎれの表現は全てこの不可視の

潜在意識が存在する故に出て来たものです。

(しかしこの不確定性は物理学上のものではなく人間の知覚,認知の ニ重性から生じる

もので,先ず潜在意識で直観した情報を選択的に処理してから思考領域で概念化,言語化

する為に起る=つまり無心というのは潜在意識での直観,判断に従い,追加処理の思考を

排除する事。  ー方,無私というのは受覚した情報を情動域との連鎖無しに処理する事。

=情動抜きであるから心は平穏)

[]

ほとんど所有物もなく比丘としての生活を続けていれば毎日の生活は単純なパターンになり

殊更「自分がこれをやっている」という意識を抱くまでもなく,無意識のうちに作業を完遂

できるようになるものです。  これが[無心]というものの出発点ですが

釈尊につき従っていた弟子達は同じ作業,同じ所作を無条件に模倣し毎日それを繰返して

いたので[無心]で作業するという事はわざわざ言われるまでもなく自然に身についていた

訳です。 つまり,わざわざ書く必要も教える必要もなかったが,はるか後,孫,孫,--孫弟子

の時代に,それ程の人徳もカリスマも無い老師の元に何十人もの弟子,しかも中には懐疑的

反抗児も居ると言った情況になると,何か特別な教育法を考え出す必要が出て来た訳です。

[]

仏伝に登場するシュリバントクの庭掃除十年の話も,芥子の実(英訳ではマスタードの種子と

なっていますが)を捜して走り回ったキサーゴータミの話も,いかに

釈尊の教え方が臨機応変,方便に満ちたものであったかを言うのみで,そこに在った延々と

繰返される反復動作というものの側面は忘れ去られていた。(反復動作=同ー信号の入力は

脳の情動域が無視するようになる為,「自己の」というタグ無しに処理されるようになる。-方,

運動域には動作全体がパターンとして刷り込まれ自動的に処理されるようになる=結果として

自己意識/自覚/自我を抜きにして行動できるようになる =これが無我無心です)

はたして中国に禅を伝えた菩提達磨師がこうした情況をどこまで把握していたのかは全く不明

ですが (達磨大師にまつわる伝説は荒唐無稽なものばかりで,その最たるものに師は青眼で

あったというのがあるが絶対有得ないハナシ) 間違いないのは,師自身は古代ヨガ (含む,

古代の舞踏ヨガ=南印度のバラットナットヤムダンスの源流) の達人であったという事でしょう。

このヨガの動きがブラジルのカポエラ様の,複数の人間による瞬間的対応のゲームといった

過渡期を経て云わゆる小林寺拳法に進化したというのは疑いない事です。---瞬間的な

対応は無意識だからこそ可能なので,モタモタ考えていたら即ー発喰う。

菩提達磨師の着目したものはここに在る[無心]とその效果で,これこそが[無我,無心]に

達し[ダルマ/法に身を委ねる]最上の道と喝破した訳です。

己れの生に対する執着,「これは殺されるかも」などといった恐怖が有ると体が萎縮して元々

持って生れたダルマの自然(じねん)すら働かない。

思考も感情も抜きに,「己れを捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ」と言われる由縁です。

[]

菩提達磨師が空観,無我無心に立った仏教を説いた中国には既に[無為]を説く老荘哲学が

流布していた。「意図的には何もやるな。全てを天命に委ねよ」と説く老子の教えは「己れを

無にして法に身を委ねよ」という大乗の教えと共通のものがあり,概念の翻訳設定や用語の

選択をする上できわめて都合が良かった訳です。 しかしながら既製の用語を使う為に,

どうしても元々のニュアンスが出て常人の日常生活に主眠を置いた大乗印度仏教も中国化し,

むしろ通念に縛られない事を旨とした独特な禅仏教が生れたと言えます。 

(同様な意味で,日本の禅には神道の純粋主義,武士道が影響して,仏教の中でも特異な

硬派となっているのでは? —– 同じ禅でも中国人は[無為]は言うが[無私]はやらない。 

最も悲観的,厭世的で[捨身](しゃしん)と言うのは日本人だけで,

お寺が喪式専門になるのも日本独特と,うなづける )

[]

人間も含め,万物=ダルマ/法が元々[無我]であると言うのは,バラモン教/ベーダの言う

アートマンに 対立して示された

釈尊独特かつ当時としては革命的な発想ですが,この本源的[無我]ゆえに自己意識,我欲

などは全て己れの想念の作り出した妄想に過ぎないという教えを納得するには既に[無心]を

体感し実践している人にとってもいささか時間がかかる。それが納得でき潜在意識の

深奥まで 染みつき,無意識に[無我,無心]の行動が取れるようになるまでの修業が

[禅]と名付けられたプロセスです。

---で,本人無我無心の内に作業を続けそれが完成したとする。

=それでは,これを作ったのはいったい誰なのか? 

=それが外ならぬ持って生れた,内なるダルマ/法であるというのが

釈尊の教えです。

つまり,禅に限らず仏教は現に作業してみない事には体感もできなければ,その体感の

経験に立って考えてみる事も納得もできない。座って考えていても何も把めない訳で,

仏教の全ての宗派が延々と続く反復作業を修業として課しているのはこの理由からです。

当然ながらー二回禅寺に行って座禅をしても足が痺れるだけで何の足しにもならないし,

釈尊にすら説明できなかった事は解説書を読んでも把めない。つまり禅には学んで理解すベき

事は何ーつとして無いし,禅を理解するというのは有得ない。 実際にやってみて,出来るか

出来ないかしかない訳です。だからこそ,自転車に乗れるか乗れないかの喩えが使われる。

しかし[無心]の作業というものは日常生活の中にいくらでも在り(当ブログの中で「レモン禅」

のカテゴリーに分類されている例),=それこそ単に歩くだけでも体験できるものです。

その体感を出発点に禅の世界に入っていくというのは誰にでも出来る事。

逆に言えば禅,及びその心理作用は必ずしも宗教に直結したものではなく,むしろ

心理工学と呼べる ようなもので,

無我無心である事で心理的拘束から解放される自由度にむしろ利点があります。

(情動領域での 好嫌,損得,エゴといった自我意識を誘発する事なく判断行動

できるという事) =当ブログに奇抜な試みや変った造形物が色々登場して来るのは

その自由発想の見本です。 (しかもそれを黙々と作る手作業は,禅以外の何物でもない

---で,結果として出来上ったものも満更悪くないと,本人マンゾクしておりますが如何?)

---つまる所,人生楽しく生きる事が肝心!=それが本来の禅というものです。

(強もての達磨師が弟子達と,踊るように体をひる返している様を思い浮ベてみられよ

---渋っ面の老師のやる事ではないでしょう。 笑)

___/\___

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3 Responses

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  1. 牛田 眞 said, on September 7, 2012 at 10:14

    いやー、相変わらず難しい事を書いてらっしゃいますね。今朝、寝起きで見たときに日本語で書いてある、と思い読んだのですが全く頭に入らず「つまる所,人生楽しく生きる事が肝心!」だけが理解できました。
    夕方になり、再び読みましたがやはり難しいこと書いてるなと思います。近頃私は、「つまる所,人生楽しく生きる事が肝心!」を中心に生きてます。漸く、秋の気配が感じられてきました。あとは雪が降ってスキーが出来るのが楽しみです。

    日本もかなり経済状況が悪くなっていると実感します。でも、何とか頑張って毎日楽しく暮らしたいと思います。 眞

    • yoshizen said, on September 7, 2012 at 11:59

      ドンピシャリ! それで良いのです。要するに,「複雑に考えなさんな」と言っているのです。
      お釈迦様の教え自体,「そもそも予計な考えが悩みの元」という事ですから。
      ___/\___
      ヨシ今村拝

  2. […] 禅の源流 […]


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