禅における Detachment = 無着無住の意味
表題としたこの言葉は,実は検策の為に書込まれ,ここにやって来た
もののーつです。簡単に言えば参禅者からの質問という事でしょう。
---で,この機会を使ってこれに対する僕流の所見を書いてみます。
禅を云々する上で最も決定的な大前提となるのは「禅は到達する
境地ではなく,悟りに至るプロセス,単なる作業修業のーつである」
という事です。禅は月ではなくそれを指す指,あるいは指している動作
に過ぎません。= ではその動作がいかにして悟りにつながるのか?
これは仏教史の中で完璧に見過ごされて来た事ですが,仏教の修業,
勤行の延々と続く繰り返しの中に鍵があったのです。
仮にぐるぐると歩くにしろ,太鼓をたたき続けるにしろ,延々と
続く作業の神経情報処理は人間の脳内でルーチンとして自動的に
処理されるようになり,一方延々と繰返される刺激に対しては
情動的閾値が髙くなり無感動で処理されるようになります。
これは毎日座り続ける座禅においても同様で,遅かれ早かれ人間の頭
には全作業を自動的,かつ無感情で処理する習慣が身についていきます。
実はこれが禅で言う無我無心に外ならず,このメンタリティを持って
物事に対処する事が無着無住と言う事です。
---で,これが悟りとどう関わるのか?
=執着を離れ,情動に翻弄される事も無くなったら,後いったい何の
気懸り苦労が残るのか? 気懸りなしに生きられるなら,そうして
気懸りなしに死んで往けるならこれ以上の自由(解脱)は無い訳です。
つまりこれが涅槃です。
-----(あっけに取られたとか?)
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追記:
反覆動作のルーチン化とか毎日通り過ぎる道端の看板を見飽きて
それが全く気に止まらなくなる(存在しているにもかかわらず,
存在しないのと同様になってしまう)現象は,本人が自分で経験
して把み取る以外には学びようがないものです。
つまり無我無心,無着無住と簡単に言う事はできても,
こればかりは人から教えられ言葉の意味を理解しても本人が
経験して身につけない限りは何の足しにもなりません。
何故ならそれは知的理解ではなく脳内での情報処理の短絡化=
情動域(=偏桃体=入力された情報に自己帰属の夕グを付ける=
所有物や家族を見分けられる)の関与の排除,そこでの処理の
ジャンプ(自己意識抜きに物事を処理する)なのでこの回路が
作られない限り無心としての処理は機能しない。
理屈や知識では自転車に乗れるようにならないのと同じです。
現実には直弟子ですら必ずしもそれを体得できていなかった為に
釈尊はいまわの際になってすら「人の言葉を信じるな。自分で
体得せよ」と繰返さねばならなかったのです。
逆に見れば,仏教史に登場する異説異論は実は無我無心を体得
できなかった者が,その言い訳,目くらましの為にいい加減な
作り話しをやっていたのではとの疑いが涌いてきます。
この点から見ると龍樹(ナガールジュナ)あたりが最もクサい。
本当に無心無住の境に達していた人間がはたして龍宮のハナシまで
デッチ上げて,あそこまで派手なセールスキャンペーンをやるか???
『大乗印のエスパーベルト,これであなたも即,菩薩に変身〜!』
えっ!?冗談でしょ?
(実践に依る人間改造ではなく,思い込みを利用した盲信への変質です)
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