Yoshizen's Blog

非情 === 無心 ? ? ? (no mind in Soseki)

もう半世紀以上も前に読んだいい加減な気憶なのだが、夏目漱石の小説、門の中で僧侶が主人公に「禅の悟りとは非情なり」と説く場面がある。「非情とは道ばたで腸を晒して倒れている事すら平気でいられる心のことだ」と続ける。(これが正確な言い回しであったか自信は無いが)---この僧の言う非情とは俗に言ぅ無心の事だろうが(どこかの宗派では非情と訳しているのか? あるいは漢訳のどこかの教典に「情に非らず」といった表現が有ったのか?)

どうも我々とかく表面的な見かけ、字面の印象、その固定観念でだまされる。非常に多くの仏敎由来の単語が俗語化して日常的に使われているがしばしば元々の悥味からずれてしまっている。諦めるも観念するも明確に理解すると言う元々の意味を離れ、希望を捨て目前の不運を受容する事と意味が変ってしまった。で、情動の関与なくと言う深意で使った非情と言う単語が酷薄無情と誤解されると「禅とは、仏教とはなんと非人間的なものか」と曲解され参禅者は“どう瞑想したらこの理解に至るのか”と混乱する。

(禅は、黙々と続ける行、あるいは日常の作業の間に己れが全く自己の意識無しに自動的に、無私無心に動いている事実に覚醒し、己れを動かしているのが外ならぬダルマである事を学びます。己れが実にダルマとともに在るのを自覚する事こそが悟りです。)

しかし、はたして漱石はどんな禅を教ったのであろうか???  

(仮にでかい寺で参禅し、その場の雰囲気に圧倒されたとしても別に無心になれたり悟りに近付ける訳ではない。もし無心などと言うものを予め聞きかじっていたとしても座りながら「無心、無心」と考え続けるのが関の山。=つまり、座っていても禅にはならないで、昔バナシを色々読んで耳歳増になっていく。ーーーまァ、漱石が禅に熱心であったとは聞かないが)(笑)

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