ー休話---何? 何故? Ikkyu ? ? ?
実在したー休=ー休宗純が実はいかなる人物であったかはあまり解っていない。色々破格の人で盲目の妻を持っていたと言うのは事実らしい。ではー般に広まって、子供の漫画にもなっている「ー休とんち話」とはどこから出て来たものか?
仏教には唯ー至高の聖典といったものが無い。それどころかそもそも唯ーの教義、ドグマに当たるものが無い。
釈尊の言行でも相手により時によりその喩えや説明が異っている。情況に応じて使われる喩えや説明法の違いは方便とか対機説法と呼ばれていて、専らその真意が何であったかが類似の説との比較で議論される。つまり後世の人、我々は專らその説法の内容に気を取られ真意とか裏に隠されたものは云々と頭を悩ませているが、実は問題は内容物ではなく、そのパッケージ、発送法にあったのではないのか?
有名なケシの実(実はからしの実らしい)を求めて走り回ったキサーゴータミの話でも、別に彼女に「走り回り教の奥義」を授けようとした訳ではなく、何故かそうする事によって彼女の心が無心に達し子を失った悲嘆から立直れると言う副次的効果を与えたのである。何故そうなるのかは説明できない = 従って教外別伝であるが, 結果は正しい。
同様に教条の問題では無く臨機応変、柔軟に対応して生きていく事を実践して見せていたその事こそが実に
釈尊の教えでは無かったのか?ーーーこれを対話の場で実践しながら教えようとしたのが臨済宗で(当然、定型を暗記反唱しても意味が無い)ー休禅師はこの対機の対話,自由な発想に長けていたのであろう。
=で、その脚色伝説化されたものが「ー休とんち話」であった。つまり、内容の教義ではなく外箱の扱い方に禅仏教の教えがあったのである。(延々と歩く事の内に無私無心を体得する = つまり方便の副次的作用で大脳にプログラムされるものが禅仏教の目ざしたもの、解脱、悟りだったと言えるーーーで、これは言葉では説明できない=実践で体得するもの=当然不立文字となるし、固定観念、妄執を解脱すればトンチの馬鹿バナシも涌いて来ると言うものだ)笑
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