仏教の行と大脳生理 (Effects of Practice)
(This is the Japanese version of previous post = Key Mechanism in Zen Buddhists Mind and in its brain function.)
ここまでのいくつかのポストで,原始仏典のアーガマ(阿含)経から大乗仏典のほとんど全てに至る
までがいかにヒンズー教に書変えられていたかを書きましたが,
それにもかかわらずいったいどのようにして
釈尊の無私,無心,空の教えが失なわれること無く2500年の永きに亘って受け継がれて来てい
たのか?---実はここに仏教を仏教たらしめる核心があり,そこに表立って書かれる事の無
かった[行]の問題があったのです。
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仏教では宗派にかかわらずどこでも信者や修行僧に延々と続く勤行を勤めさせます。
それは延々と題目を唱えたりあるいは太鼓をたたいたり,ぐるぐる歩き続けたり
(比叡山での修行とはひたすらこれである---若い頃禅に傾到したアップルの故スティーブ.
ジョブスが延々と歩かされて頭に来たと言うのは有名な話,
中には水を満した丼を持ってぐるぐる歩くなどという[行]をさせる寺が中国に在る。
あるいは座禅とともに特別な呼吸法を習得させたりもします。
しかし何故このような[行]をさせるのか?---実はこうした[行]自体に特別な意味が有るわけ
では無く,それをすることで条件付けされる脳の側に要点が有ったのです。
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人の脳は受覚した情報を処理する時,全ての情報を等しく扱う訳ではありません。
間断なく,五感から入力される情報に加え体の内部情報や運動器官からのフィードバックetcと,
処理せねばならぬ情報は将に膨大でそれの処理をいかに合理化,効率化するかは生体維持の
生理作用同様に極めて重要な問題なのです。(入力される毎秒1100万ビットに対し脳が取
込める情報はせいぜい毎秒16〜50ビットが限界と言われる)
完璧な健康を維持できていても敵の発見が一瞬遅かっただけで全てが無駄になってしまう。
可能な限り自動化,自律化し処理量を減らす事が生存のキーなのです。 従って脳に達する情報
は,その刺激の強度に拘わりなくその重要度(価値観,損得好嫌,危険性など)に応じて処理され
る訳で重要度ナシと分類されたものは完璧に無視される。
あるいは同ーの刺激が繰返される場合,それを評価する閾値 (threshold) が高くなりそれに達し
ない強度の情報を無視するという対応も取られます。
(臭いや騒音に慣れたり,毎日見ている物が注意を引かなくなるetc)
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脳の情報処理で重要な事は,この情報の評価分類は生理作用のコントロールにも関与する
大脳古皮質の情動域で行なわれているという事です。
感情が大脳新皮質での価値評価の思考と決定的に異なる点はそれが『己れ』の利益(損得,
安全,生存)に直結した直観的判断に立つという事と,同時にホルモンの分泌をともなっている事で
す。危険の徴候を目撃し“ヤバイ”と感じた瞬間にアドレナリンが分泌され脈拍,血圧が急上昇,防
御や逃走に即応する。しかし危険性も無くあまり損得に関係の無い,延々と繰返される勤行となる
とその同一パターンの情報は感情的には全く無価値,無害のものとして無視され,情動域を素通り
して処理されるようになります。 一方,体の所作は脳の運動領域にパターンとして刷り込まれ
体は自動的に動くようになる。
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=つまり延々と続く勤行は『己れ』という利害意識に関わる事なく,自動的に処理されるようになる訳で,
実にこれが仏教における勤行の機能だったのです。つまりこれが
釈尊の教えの核であった無私,無心の現象に外ならず長年この勤行を(無条件に受け容れ)
続けるうちに物事を感情抜きに淡々と処理する心理,脳の対応が身に付いていく。
我執,我欲の源である情動域を素通りしてしまうので我にからんだ妄念に捕われる事も無く,
そもそも執着が無い。 これは元々誰もが脳の中に持って生れている情報処理簡略化のメカニズム
で,何ら特別の現象でも,まして神秘的なものでもありません。 これが,無私が全ての人に普遍で
ある事,かつダルマ(法)が万人に内包されていると言われる根拠に他ならないのです。
この[行]の伝統が保たれていたからこそ,仏教の真髄は今日まで綿々と保たれて来ていた。
つまりその[行]からもたらされる無我無心が実に仏敎の真髄=空無に外なりません。[行]を経て何か気の利いた観念や思想に到達するのではなく、そうした観念や思想のかけらすらも無い空っぽに至る。これが悟りといふものです。
空無であり、何も存在していないのだからそれを形容描写する事もできない。しかしそれの解っていない坊主が無理をして話を作ったものだから後世の仏教は怪し気なオトギ咄で溢れた。そもそも合理主義者の
釈尊が輪廻転生は元より三千世界などを夢想していた筈が無い。=だからこそアーガマ経の中には夢想も空想的奇跡も登場して来ないのです。(前世が無いから生来のカ一ストも無く、当然、サンガにカーストの区別は無かった。)
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(それでは,同様に万人に共通な感情,情動はどうなのかと言う疑問が出て来ますが,)
単純な因果関係を見ただけで情動域での判断傾向,欲やエゴ,愛憎執着がトラブルの種になる
事は有っても悟りを開き静寂な生を得るには何の足しにもならないと見たのが
釈尊であったのです。(だからこそ情動域の関与抜き、無心に作業する事が教えられた=キサーゴータミに教えられたのは何の観念でもなく、只走り回る事であった)
(ーーーで,すったもんだの騒々しい人生を送って来た僕個人としては,
騒さいへビーメタルロックも悪くないとは思うのですが) (笑)
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(必読=修行での矛盾)
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