Yoshizen's Blog

修行での矛盾 — Paradox in Zen Practice

しかし禅の修行とは何か? そもそも禅とは何か? しかし禅が何であるかを答えたとしたら、それは禅ではないし、答える事自体が既に禅では無い。  

禅には問う事も無ければ答える事も無く実にそれが無くなった所に禅が在るのです。と言うより、元々禅などと言うものは存在していない。  

禅習得の足しになる方便は武道とか芸事など色々在り、それぞれの技能の習得、その進歩が目に見え体で感じられたりするので修行としたら大変都合が良い。 ---しかし、その都合良さに惑わされてしまうと、まるで禅と呼ばれるたいそうな事でもやっているような錯覚に陥る。

禅は神経生理上、シグナル(入力情報)が情動域(主に偏桃体)の関与無しに自動的に処理されるようになるので (情動域が『私の』というタグを付ける事で『我』=エゴ、欲、自己保存意識が発生する = 逆に言えば情動域が無視するような、害も無い反復シグナルを送り続けると情動域は無感覚になり入力を運動域などに直通させるようになる) 例えば武道においては恐怖のためらい無く、体が無意識に反応して神技のように動いたり、習い事で目をつぶったままでも完璧な所作が出来るようになったりする。 しかしここで生じる問題は、体や意識がその行に特定されてしまうという事です。(武道の奧義に達したからと言って禅の達人になるとは限らないーーー実在する奥義の後に禅が在ると思いがちですが、在ると思うのは禅などと言う観念に捕われた妄想に過ぎません。何故ならそのような観念すら存在しないのが禅なのですから) 

しかし刀も持たず、対峙する相手もない状態で、---例えば己自身に対してどれだけ無心になれるか? そもそも刀が無かったら己はここまで来ていたか? 

禅の修行はしばしば川を渡る事に例えられ 『川を渡りなば舟を投げ捨つるべし』と教えられる。 これが難しい。(笑)

方便とは言え刀を振回し五年十年と修行して来た揚句、それを投捨て意識の中から抹消するなどと言うのは書込む事よりよ程難しい。 果して刀も方便も無く出発し、どこかに到着する事が有るのか? 無から出発し無に到達し得るものか? (で、皮肉なことに実はどこにも到達しない、それこそが禅,と言うのが禅らしい。

古来より行なわれている修行はぐるぐるとひたすら歩く事ですが、人は元々無意識でも歩ける。それをわざわざ修行と名付け意図的にやらせ、しかもやっている将にその事を意識の中から抹消させようとする矛盾。 逆に言えばそれを教えた人自身、実は無私無心という境地に達してはいなかったのではと疑わせます。(禅の観念にこだわっている師匠が考えそうな事ですよ)

ーーーもちろんそうした徹底した無意識化、無私化が無い訳ではありません=彫刻家のノミがあたかもそれ自身で動き出し、ノミと石だけの対峙になると言うのも在るし、形は元々石の中に在った(つまり『アタシが彫ったのではない』)と言うのはしばしば聞く。 (しかしここまで行くのは大変です。ーーーまァ精々やることで、それが平常心と言うモノ。 だからこそ犬のクソと言われるのです)

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禅などと大上段に振かぶったものではなく単なる日常を平常のものとして丁寧に生活していく=そのうちに何故かその日常の手順がえらく軽やかでなめらかなものになっていくーーーそれで充分なのです。 (別に禅を極めたからといって閻魔大王に褒めてもらえる訳でも無いしそもそもあの世なんてものも無い。 生きているうちに充実した日常を送る事が肝心)  

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