釈尊の教え---Buddha’s Original Teachings
Note : This post is parallel with this and this post in English.
釈尊の教えが元々如何なるものであったかを知るには,教えの与えられたその時代,
その時の思考,その瞬間の心理の機微を知る必要があります。
人々の問い掛けに,その瞬間の機知で応えていたとされる
釈尊の教えに抽象的な想念は無く,全ては対話に立った明解な英知であったのです。
人々の問いかけもごく日常的な問題,その世相のトピックスであった訳ですが,
釈尊の時代は将にヒンズー教の勃興期で,当然の事として新しい流行思想が話題の中心に
なっていた訳です。 古典的べーダに根ざした道徳論的,儀式的バラモン教から派生した
ヒンズー教は当時の新興宗敎で「霊魂が生れ代り次の生を規定し,
それがカーストになる」とした画期的な流行理念であったのですが,この流行とそれの
もたらした恐怖は,かつての「天中殺」の流行を想い浮ベるとピンと来るでしょう。
根拠も,何の証拠も無いでっち上げであるにも拘らず,世の人というのは
コロっとだまされパニックに陥る。この「輪廻の輪」という妄念に囚われた人々に
明解な答を与え,無要な心配やカーストのクビキから解放するというのが
釈尊の直面した火急の任務であったのです。 何の根拠も無いそのような妄念に対して
釈尊は極めて論理的,合理的な解答として「心配するには及ばない。万物は(我々も)
因果,縁の上にのみ存在しているのだから,当然の事として肉体が死ねば,
そこに根ざしていた意識も自覚も,苦悩も消滅する。これが涅槃で,それは誰もが
自然に得られるもの。我やカーストなど単に頭で作り出した妄念である」と説かれたのです。
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ヒンズー教で言う「無限に続く死と再生の繰返し=苦界/娑婆/サムサラ」に対して,
釈尊は「輪廻,再生すベき「我」などと言うものはそもそも存在しない」と説かれた訳
ですが,存在しない物を説明するというのは至難の業です。(概念,言葉も無い!)
例えば,全てが共有され私有物の無い社会で「盗み」とかその罪について議論する事はできない。
重力の在る地球上でなら「もしこの重力が無かったら--」と考える事ができますが,元々
重力の無い世界に暮していたら,重力とはいったいどんなものなのか想像もできないでしょう。
無私,無我である事はできる(一如として)が,それを客観的に自覚した瞬間に一如は消滅する。
(眼の存在の自覚なしにこれを読んでいても,言われて気がついた途端に一如が崩壊する)。
つまり無私を説明するとは外ならぬ「私,我」の存在の認知になってしまう訳です。当然の事として
釈尊が「我」を話題にする事は無く,「魂は死後どこへ行くのか?」といった質問は存在し得ない
物で,それに対する答が与えられる筈も無かったのです。つまり
釈尊は本人が「無我」に一如であった故に「我」の存在に関しては完璧に「無記」だったのです!
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従って,仏教の中で最も重要な無私,無我(アナトマン)の教えは,実は体得する以外にない。
不立文字,教外別伝,以心伝心となる由縁です。(無心に,黙々とやるのみ)
しかし逆に言えば,言葉の上で定義し得ないために,誤解曲解が生じる原因にもなったのです。
---で,この曲解はごく初期のうちに起っていて,輪廻やサムサラを説く仏典は
実はヒンズーやタントラの混交でしかありません。
無私無我を教理の根底に置く時に,いったい何が誰が,死後も留って生れ代るのか?
釈尊がそんな矛盾した馬鹿な事を言うはずが無いでしょう。(笑)
しかしケダモノに生れ代るかも知れないと心配する人々の恐怖感は職業僧の飯のタネ,
彼らが話を書変えてしまったのです。
在りもしないあの世から戻って来て「話が違う」と文句をつける人は絶対居ないのですから
どんなホラを吹いてもバレません! 実に困った“虚偽表示”です。(大笑)
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ヨシ禅縁起
(これは友人に送った手紙の拔粋で,まァ日本霊異記,仏教説話の現代版ですな)
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昔母親が僕の手相を読みながら 「お前は下らない事ばかりやっているが,曲った事だけはやらない。それに使命を負って生れていますからそれを果すまでは絶対に犬死にする事はないし,そもそも不動様が付いているので全く心配していません」と言い放ってくれた事があった。 しかし,なんで俺ごときに,わざわざ不動様の番が付かねばならぬのか?
この意味が把めたのは実に厄年も過ぎてからで ーーー ハタ!そう言えばえらくヤバい所を歩き回っていた割にマムシ、ハブはおろかサソリ、毒グモの類に出合った事も無い。 考えてみるとそもそも病気にかからない。 岩場で二度も転落しながら全くの無傷。 大転倒してスキーを二本も折りながら何の怪我も無し。 一方、背後から刺してくれた者、裏切ってくれた者が突然癌にかかってコロッと死んだり、もっとひどいのは死ぬ事もならず苦しみ続けている。 山で嫌がらせのしごきをやってくれた男は即、雪盲で動きもとれなくなって痛みでひいひい泣いていた。(因みにこの男、しばらく前に山に登ったものの徹底して暴風雨にたたられたとか=神サマ後々までかなりしつこいらしい。笑) 偉そうに命令はするが自分では薪切りも荷上げもやらなかった小屋番の五人は還暦を迎える事もなく他界して当時のメンバーはあとー人しか生残っていない。(ずっと後になって知った訳だが全く異った状況と死因ながら五人が次々に、というのには流石に目をむいた) ーーー 小生が常連になると店や団体は大繫盛,逆に行くのを止めるとそこは倒産する。—–(ディスコ四軒,カフェ二軒,三団体, 山小屋二軒) 遇然にしてはちょっとタイミングが重なり過ぎている。(全て知らないうちにそうなっていたので,小生が呪いをかけた訳ではない---念の為)(例外的にBrixtonのクラブスタッフには予め警告を与え次の仕事捜しを勧めておいたのだが、六ヶ月後現実につぶれるまでは誰も本気にしなかったようだ。)
[]で,もっと奇妙なのが[8150の怪]といふ奴で,こちらの関係先,立回り先,それこそ電話番号から
銀行口座,
ユーチューブの整理番号に至るまで,
将に「張番中]とばかりにこの数字が現れる。 ---数字学の人によるとこれは語呂合せ通りに[ハイゴレイ,背後霊]の告知なんだそうな。---思い込みにしては,本人が選んでいる番号ではないし,それが勝手に現れて来るのは止めようもなく,現に個人向けの物に出て来る事実は動かし難い。---しかし、どんなメカニズムで現れて来るのかね?
[]と言うのを逆から考えてみて,ハタと思い当ったのは,実は小生は元々坊主になる為の修業をさせられていたのではと。 虫や花の自然観察から始まって科学一般,一方では詩人逹の人間学,次に社会学で視野を広げる一方,山登りの有無を言わせぬ荒行と,小屋番の只働き = そりゃ無私無心の達人にもなるさ。 (永平寺の香月師はそれを一目で見拔いた訳だ)
で,幸か不幸か裁判沙汰で仕事を離れ,改めて禅なるものを考えるうちに無私無心と神経生理との関係に気が付き,禅と仏教の謎が一気に解けた。
[ で,これも何故か遇然,ブログを始める事になり,書始めてから気付いたのは,どうやらこれは
釈尊以来,2500年間で初めての解釈,ひょっとしてこれはえらい大役で,これが母親の言っていた使命なるものではなかろうか? もしそうであるなら,そりゃ不動明王の加護,背後霊の加護が付くと言うのも納得が行く。---逆に見れば,これが必要であったからこそ,全てがここに集束すべく物事が生起して来た,生起すべく配置されていたという事だろう。
遇然のように見えているが実は全て起るべく定まっていた訳です。(これを運命と呼ぶ)
[]唯一困るのは,小生のブログでは元々の仏教に怪し気なナンジャモンジャは(あれはヒンズーや土俗タントラの混交)存在しないし
釈尊もそれに対する質問は無視して黙っていたとされている(無記)---それではこの不動明王と言うのは何者で,そもそも小生の運命を規定するダルマに意志や意図が有るのかと言う難問が出てしまう。
ダルマは単に縁起が網のように連鎖した[空]で意図を持たない無私である筈。(まァそれは不可知と逃げるのですが) (しかし,これも逆説で,もし小生のやっている事,書いている事がダルマや
釈尊の意図に反しているならそれこそ大逆罪で,とっくの昔にコロッと死んでいた筈だし,嫌がらせやハッカー攻撃を受けてブログもつぶれていた筈。)ーーー結果として何故か小生が禅仏教の基になった脳生理について語る事になった。 小生自身は悟りを得ようとも教祖になる気もさらさら無く単に迷信に侵された仏教者,研究者に[これが本来の教えというもの]を証したいだけで,2500年の間に一人ぐらいは,これをやる奴が居ても良かろうと言う事です。
[] これを整理,組識化し,宗教化するも哲学化するもそれは誰かの仕事で,それも因果の生起として起るものなら起り,仏教も元々の形に戻るでしょう。あるいは,鼻クソとして消えるものなら消えて行く。 それがダルマの意志,と言うものでありそれが己れに付いたカルマです。
合掌 良禅拝
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