平常心(対話から)
これは友人とのメールのやり取りの抜粋です(青字は友人)
ーーー で、かつての人生の思い出、その追憶の駒々はどんな栄光や贅沢よりも、私にとってのかけがいのない宝物なのだ。それが宝物かガラクタかは、ひとりひとりのホンネで決める、というより、決まってしまう事だ。
そんな個人ごとの宝物を死ぬまで保持することがいかに大切かを共感する人々は、決して少なくはない。
この心理をわかってくれるときが来れば嬉しい。そして、先輩が意図していること とは無関係に、このホンネの欲求に先輩のピンホール写真が寄り添ってくれるから、ありがたい。
あのピンホール写真にやすらぎを覚えるのは、私の場合、心が覚えていて、時空を超えて再現したい、あるいは、せめて心の中にだけでも再現し再体験したい愛しき何かへの入り口を感じさせてくれるからだ。
おたくはものすごい思ぃ入れと追憶の中で生きていて、おそらく禅も同様に思ぃ入れ、思念の形だと考えていると思う。しかし僕の禅には思い込みの部分は無く現にやっている事、そこでの無心が僕にとっての禅であり解脱なのだ。つまり、何か特別な思い方とか観念が禅なのではなく、何の思いも無いのが褝なのだ。
何の思念、知的作意なく発想された事は、実は潜在意識、情念の深層からの呼びかけに外ならない。で、それを黙々と追求していくうちに針金彫刻やA7Rに付いたベス単なんて物が出来上った。これが僕の禅であり自在だ。
同様に何故かボケた映像に引っかかる。待てよ、これどっかで見たぞ。いつだったかは解らない遠い昔、ひよっとしたら夢の中だったかも。---で、ツァィスレンズの向うにそれを発見して以来、僕のレンズ行脚が始った。ピンホールはその一駒だ。
*******
執着を捨てることを良しとする賢人は古来多かれど、「自分に正直に生きる」「嘘をつかずに生きる」ことではじめて安らぎを得る人も多い。しかし現実には本音をいつわり、偽の自分を生きて幸せを装う程、器用に振る舞えない人のひとりであることをさんざん自覚させられてきた。
正直も否も、欲や執着と言った感情どころか、そもそもアタシはあまり自己である意識が無いので思いつくまま 勝手に生きさせていただいております。これが禅で言う自在。
で、自在についてもう少し書くと=これは孔子サマの言う「己れの欲する所に従えども距を超えず」と同様なもので、己れ、己れの生きざま、思考、撰択の全てが一致しているなら、つまり己れとして生れたそのもの、つまりカルマ、ダルマに沿ったものであるなら、それがー如であり、それが正しい。
正直であるの無いの云々と考えているお宅はまだ正直の外側をうろうろしているだけで正直になり切っていない。(本当に正直なら、それについて考える事はない)
『俺以外の誰でもない俺は、俺である事を考える必要はない』
だから禅は考えないし(無心)自己である意識の必要も無い(無私)。只生きるだけ。---で、これが自在でありその心を平常心と呼ぶ。
お宅がごちゃごちゃ悩んでいるとしたら、お宅は悩むように生れたのかも知れぬ=それがお宅のカルマであるなら、そう生きるのが正しい。
(禅とは冷いもんです 😀)___/\___
。
leave a comment